「木」の本質を5冊の本から学ぶ〈前編〉
今回とりあげる本は以下の5冊です。
「木」を題材にした5冊の本から、「木」の本質を改めて考えてみます。
当然ですが、これらの本の中には、「木」という共通のお題に対して、あらゆる立場の経験や見聞からくる知恵や知識が綴られています。
その中で、敢えて今回は「木」と「人間」という本質的な部分がどのように語られているかということに焦点を当てていきたいと思います。
幸田文氏は、後でとりあげます西岡常一氏との会話の中での見聞を次のように述べています。
西岡さんは立木は立木の生きかた、材は材の生きかた、かりに立木を第一のいのちとするなら、材は第二のいのちを生きているのであり、材を簡単に死物扱いにするのは、承知が浅いというのである。
『木』幸田文 – 新潮文庫
この内容は、『木に学べ』や『木の教え』の中にも出てくるのですが、切り倒されたあとの木は、材料として第二のいのちを生きていることが述べられています。つまり立木のときとはまた違った身近な距離で、材料は人間と呼応していると考えられます。
手仕事や技術の知恵についての社会学・歴史学者であるユーグ・ジャケ氏は次のように述べています。
デザイナーのエルワン・ブルレックは、椅子に木材を用いることは単に自然の要素を取り入れるということ以上に、あるプシュケー(魂)を召喚することに等しいということに注意を払うべきだと述べている。木材は多くの意味で身体に近いものであり、その椅子が人間工学に即したものとなるのはそれゆえである。
『木』エルメス財団編 – 講談社
立木から材料になり、さらに道具に変化しながらも、木が人間と同じく生き続けていることを認識させられます。
白洲正子氏は、道具に関して次のように語られています。
日本の道具は、焼き物でも木工でも、人間の愛情を必要とする。人との付き合いによって育つといってもいいが、大事にしまっておくだけでは何の役にも立たない。
『木』白洲正子 – 平凡社ライブラリー
愛情を持って(木工による)道具を使っていくことで、道具も人間もともに育っていくことが理解できます。
また、器を作る立場である仁城義勝氏は、次のように述べています。
欅や松や桑は銘木と呼ばれますが、そういう価値にこだわらず、賞をもらったり評価されたりする伝統工芸の世界とも無縁の、素朴な器を作りたい。漆と木の生命力が心地よく共生する「用の器」を作ること。それにはできるだけ自分の欲を削いで、てらいも媚びもない健やかな生き方をし、謙虚に生命と向き合わねばならないと思っています。
技術と呼ばれるものは、心と身体が遊離しない一連の所作なのだと思います。心のありように身体が連動する様子、それは器の姿となって現れます。技とは、心のありようについてくるもので、それゆえ精進が問われるのでしょう。器を作ることの意味や、器の用を思いやり、用を担う道具を思いやる心を養っていけば、自ずと技術は伝承されると考えています。
『木』エルメス財団編 – 講談社
器(道具)をつくる段階で、その材料(木)に向き合う自身の状態や態度によってその出来が変わってくるほど、人間と木との近い距離を感じる言葉であるように思います。